よりどりみどり〜Life Style Selection〜


ツール・ド・エビス

春……1年の中でも、いちばん気持ちのいい季節になってきた。私は4月生まれなので、春になると身も心もやけに元気になってくる。よし、これに挑戦しようだとか、あそこへ行ってみようとか、とにかくじっとしていられないのである。そんな私のウズウズを解消してくれるのが、自転車だ。

私の住んでいる恵比寿は、渋谷、六本木、広尾、代官山というお楽しみスポットまで、だいたい駅にして一駅から二駅という場所。どこも、自転車ででかけるのにちょうどいい距離なのだ。いつも混んでいる山手線や、やたらと階段の上り下りが多い地下鉄や、いつ来るかわからないバスに乗るよりも、よっぽど手軽で、しかも早い。だから5年前に麻布十番から引っ越して来たとき、真っ先に思った。よし、自転車を買おう!

さて、どんな自転車を買うか、これが問題だった。スーパーで売っているようなママチャリは絶対に嫌だし、かと言って、ドロップハンドルのロードレーサーまでいくと、ちょっと気恥ずかしい。無印良品の自転車は学生っぽいし、電動サイクルってのもおばんくさい。ベンツやポルシェやジャガーの自転車をン10万円出して買うほどバカではない。やはり自転車といえば、フランス、プジョーかなあ……といった調子で、なかなか結論が出ない。

あちこちからカタログを集めて、友達や仕事仲間が迷惑がるのを無視して「ねえ、ねえ、どれがいいと思う?」などと意見収集に励んだ。私は、何か購入するとき、取りあえず思い当たるものはすべてリサーチしなければ気がすまないという、面倒くさい性格なのだ。

しかし、人には言ってみるものだ。たまたま、私が手伝っていたコマーシャル制作会社のプロデューサーに、モトクロスをやっていた人がいたのだ。そして、プジョーは車体が重いなどという、極めて冷静且つプロぽい意見を述べ、イタリアのBianchi(ビアンキ)の自転車を薦めてくれたのである。自転車はフランスとばかり思っていたが、なるほど、イタリアも悪くない。

画像1ビアンキはイタリアの自転車専門の老舗ブランドで、「青空」という意味の「チェレステ」という色で有名だった。水色にちょっぴりグリーンを落としたような色は、いかにもヨーロッパの香りがして品がいい。今でこそ、ビアンキの自転車は東急ハンズでも売っているが、当時はまだそんなに出回っていなかったのだ。

私は、彼がわざわざ取り寄せてくれたカタログを見て、一目で気に入ってしまった。そして、泥よけはあったほうがいいとか、サイズはどうとか、何から何までアドバイスしてもらい、挙げ句の果てには、彼がレースでお世話になっていたという、駒沢公園の近くのサイクルショップに注文までしてもらっちゃったという、ちゃっかり振りを発揮したのだった。

トラックで届けると言ってくれたが、どうせだったら、駒沢公園から恵比寿まで初乗りと行こう! 秋晴れの、最高の自転車日よりを選んで、私はバスに乗って、駒沢公園のサイクルショップまで取りに行くことにした。

店先で待っていたのは21段変速の、オシャレでカッコイイ憧れのクロスバイク。ハンドルはストレートで、フロントサスペンション付きだ。フレームもサドルもハロゲンライトもカラーはチェレステ。体に合わせてサドルの高さを調節してもらい、「チャオ!」とばかりに颯爽とショップを後にした。

駒沢通りを一路恵比寿に向かって疾走するイタリアの青い空。コンビニのガラスに映る自分の姿に、思わずニタついてしまう。うふふ! 信号が多いので、ビュンビュン飛ばすことは出来なかったが、まあまあ順調な初乗りだった。

しかし、あと少しで恵比寿……というところで、思わぬ難関が待ち受けていたのである。山手通りとの交差点まで、気持ちのいい下り坂。勢いに乗って一気に交差点を渡り切ったまではよかったのだが、なんとそこに待ち受けていたのが、長くて急な坂道だったのだ。自転車に乗っている人は、みんな手で押しながら歩いていた。でも、私の新車は、21段変速の外車なのだぞ。ここで降りたら、イタリアに顔向けできない!(別にイタリアになんの義理もないのだが)

私はギアをローにチェンジして、立ちはだかる勾配に挑んだ。さすが21段変速、なかなかやるじゃん……と思ったのは最初の内だけ。ギアがついていようが何だろうが、自転車というのは人力なのである。ローにして軽くなった分、たくさん漕がないと進まないのだ。漫画みたいに、足が10本ぐらいに見えてるんじゃないかってくらい、猛烈な勢いで漕いでいるのに、まだ坂の中腹。体中から汗が噴き出し、呼吸は乱れ、なんだか酸素も薄くなってきたぞ……。それでも、ここで下りたら女がすたる。新車が泣く。私は、坂の後半を、精神力と根性だけで登り切ったのだった。

画像2家に到着したときは、もうボロボロだった。下着はびっしょり、化粧はドロドロ。おまけに腿とふくらはぎがパンパンに張っている。ふと橋本聖子の逞しい太股が浮かび、ぞっとした。私にとって自転車は、あくまでもファッション。オリンピック並みの筋肉は必要ないのだ。今後、坂道には注意しよう。

ところが、それから1週間もたたない内に、私は自転車ライフの厳しい現実を思い知らされることになる。それまでの生活では気づかなかったのだが、恵比寿を囲む渋谷区、港区、目黒区エリアというのは、意外と起伏がある。つまり、坂が多いのだ、よりにもよって……。すぐ近所のガーデンプレイスに行くのも上り坂、有栖川公園も、六本木ヒルズも、麻布も……坂だらけ。難所の目白押しである。脚力を鍛えるには申し分のない場所だが、私には大迷惑だった。なるべく坂道を避けて、迂回ルートを探しながら走るのは、なかなかやっかいだ。

また、これも自転車に乗るようになって気づいたことなのだが、東京は、歩道も車道も、自転車のことを全くと言っていいほど考えて作られていない。

歩道は、人が2、3人横に並んでいたら、もう通れないし、ひどいと真ん中に電柱が立っていたり、店の荷物がはみ出していたり、歩道橋の階段が食い込んでいたりして、アクロバットのようなテクニックを必要とする。車道は違法駐車だらけで、自転車便のお兄さんのように、車に混じって走るのは命がけである。以前ベルリンに行ったとき、街中に自転車専用道路が整備されていて驚いたことがある。若者がスイスイと軽やかに走って行く光景は、とても羨ましかった。こういうことに関して、日本は本当に後進国だ。

そして、何よりも私の自転車ライフの天敵となったのは、世に言う“おばさん”である。私も、年齢から言えば、筋金入りのおばさんなので説明しておくが、ここで言う“おばさん”とは、周囲との調和を無視し、我が物顔で自分中心を貫いている、精神的“おばさん”のことである。

この“おばさん”が自転車に乗ると、より凶暴化するのだ。例えば、前方からこの“自転車おばさん”が来たとする。すれ違えるほどの道幅がない場合、当然譲り合うわけだが、“自転車おばさん”の99%が、道を譲らない。そういう発想すらないのだ。私が止まるのが当然とばかり、スピードも緩めず、ありがとうも言わず、よたよた走り去る。これが、前後に小さな子供なんかを乗せていると、もっと始末が悪い。よたよたしながら眉間にしわを寄せ、私が止まっているのすら邪魔だという目つき。もしここで私が止まらず、すれ違いざまに接触でもしようもんなら、きっと大騒ぎだろう。倒れて子供がケガしたとか言って、治療代をふっかけられるかも知れない。おお、恐ろしい!

そう、都会は自転車にとって、危険に満ちているのである。それに気づいたときから、私は自転車に乗るときの意識を180度変えた。華麗に颯爽とサイクリング? と〜んでもない! 街は戦場、気分は戦士。今日も、ツール・ド・フランスならぬ、ツール・ド・エビスに繰り出す。

出で立ちは、どんな難所にも対応できるように、スリムなジーンズにジャンパー、そして当然靴はスニーカーだ。この季節は花粉症が恐いので、マスクとサングラスで完全装備。そうそう、紫外線よけにキャップもかぶらなくちゃね。“自転車おばさん”が出没する商店街と学校周辺は避けて通る、私だけのルートも見つけてある。

さあ今日も準備は万端。ツール・ド・エビスに、いざ出陣!