みなさんは、日本のカジノバーに足を踏み入れたことがおありだろうか。1995年から1996年ごろ、それまでは日本全国いたるところにあったプールバーが姿を消し、カジノバーにとって代わった時代があった。それぞれはあまり大きくない店だが、ブラックジャック、ルーレット、バカラのテーブルが設えられ、それなりにカジノの雰囲気を楽しめる場所でもあった。

 

カジノバーのすさまじいお客の争奪戦
 

カジノバーがそれほどまでに流行ったのは、単にゲームのおもしろさだけでなく、実際の換金が行われていたからである。もちろん、日本の法律では換金は御法度である。だが、店はパチンコの換金のように第三者を通す形をとって法の盲点を突いたり、また勝ったチップの額をポイントとしてためて商品と交換できるようにしたりと、さまざまな手段が使われていた。

数だけでいえばラスベガスをもしのぐほどの、東京・カジノバー全盛時代が2〜3年は続いただろうか。まもなく、数が増え過ぎたためか、オープンすれば儲かるというカジノバー神話は崩れ始め、そのうちにすさまじいお客の争奪戦が始まった。特にその競争が激しかったのは、東京の新宿、赤坂、六本木で、ここで繰り広げられたサービス合戦は、今でも語り継がれるほどである。

 

超バブリーなサービスでの「お客呼び込み作戦」

その当時、どこのカジノバーでも1万円分のチップを買うと、5000円〜1万円のサービスチップを出すのは常識だった。このほかに、たとえば六本木の『C』という店では、週に一度抽選会をやり、1等賞にハワイやラスベガスなどの海外旅行、2等賞には10万円の現金がプレゼントされた。

赤坂の『S』では、やはり週一の抽選会で、1等賞には車、2等賞はミンクのコート、以下、電化製品、ブランド商品を提供するという大盤振る舞いだった。せいぜい50〜100人のお客に対して、約2割くらいの確率でなにがしかの商品が当たるのである。お客にとってはこんなに割のよい抽選はなく、毎週のその日は、立錐の余地もないほどの大賑わいであった。

 

サービス目当てに各店を回る「荒らし」の登場

こういうサービスをどこか一か所が始めると、必ず他の店もそれにならうようになる。やがて、どこもかしこも超豪華な抽選会や現金サービスを始めるようになり、と同時に、ゲームはいっさいやらないが、商品やサービスだけを目当てにした、「サービス荒らし」が登場するようになった。

「サービス荒らし」は、抽選会やサービスチップ目当てのタイプだけではなく、食事やお酒を目当てにやってくる者もいる。通常、カジノバーで出される食事、お酒、タバコはすべて無料である。それをいいことに、中には一銭も使わず、さんざん飲んだり食べたりし、ポケットいっぱいにタバコを詰め込んで帰る人も少なくなかった。

 

 

次々登場したグルメなカジノバー

こういった「サービス荒らし」に泣いた店も数多くあった。中でも悲惨なのは、赤坂の『P』という店である。当時、赤坂のカジノバーでは、現金サービスや抽選会だけでなく、「グルメ企画」でお客を呼ぼうと考えたところもあった。レストランで食べれば1万円は取られそうな、松坂牛ステーキコースや本格フレンチ風フルコースを、お客に振る舞うカジノバーもあった。

そんなグルメ指向の中、『P』が打ち出したのは、本格寿司バーの設置であった。ふつうの寿司屋と同じようにカウンターを設え、朝一番で築地から仕入れた新鮮なネタを寿司職人に握らせる。またこの寿司職人は、「寿司職人コンクール」に出場しようという、技術も志も高い人材であった。

バブリーでグルメなあの日は、もう戻らない 

本格寿司バーを設置した『P』は、赤坂で話題となり、大ヒットした。といっても、ヒットしたのは無料の寿司バースペースのみ。カジノスペースには、さっぱりお客が寄りつかなかったのである。不幸なことに、『P』のお寿司の味が良すぎたため、誰も彼もが「サービス荒らし」となって、この店を襲ったのであった。ちなみに、『P』の寿司バースペースの仕入れと人件費にかかったコストは、月に1200万円超だったという。たいへん残念なことにこの店は、それから数か月で消滅した。

その後、カジノバーはお上の「手入れ」などもあって一気に衰退した。ここ最近、再びカジノバーがポツポツと増え始め、復活の兆しを見せているが、以前のような景気のいい話は、さっぱり聞かれない。抽選で1等賞に車やミンクのコートを振る舞ったり、フレンチフルコースや、寿司バーを企画したカジノバーの豪傑オーナーたちは、今はどこでどうしているのだろうか。
しみじみ、あのバブリーな日々に思いを馳せる今日このごろである。