私の知人に、勝部勝造さんという人がいる。勝部さんは関西の大手衣料メーカーのマーチャンダイザーで、今年55才になる。仕事柄、一年中海外を飛び回り、そのかたわら世界各国のカジノを転戦しているという、ギャンブル好きの私にとっては、夢のような暮らしをしている人だ。

「勝部勝造さん、というのは実に珍しいお名前ですね」初対面のときに、名刺の名前に興味をひかれた私が彼にたずねると、「ヘンな名前で驚いたでしょう? 姓の勝部は本名なんですけど、実は“勝造”は改名してつけたものなんですよ。ツキを呼ぶためにね」と、教えてくれた。

「もともとの名前が“安裕”なんて、ちょっと軟弱なイメージだったものですから……。でも“勝造”に変えてからは、そこそこだったギャンブルのツキが、ぐ〜んと上向きになりましてね」
勝部さんのギャンブル好きは年を追うごとに高じてゆき、とうとう縁起をかついで改名するほどになったとか。

 

言葉をいいかえるギャンブラーの“ゲンかつぎ”
 

「女房にも“勝子”と改名しろと言ったんですが“死んでも嫌です”と抵抗されましてね。で、しかたがないから、飼い犬の名前をカツにしました」
最初は冗談かと思って聞いていた私だが、彼の表情は真剣そのもの。ギャンブラーたるもの、そういうことをおろそかにしていては絶対に勝てないのだ、と彼は力説した。

確かに、ギャンブルの勝ち負けを支配するのは、最終的には技術や経験ではない。“ツキ”という人知では測れない何か、である。ギャンブラーは、自分のツキのバイオリズムを知り、それに合わせて勝負をコントロールするべきであり、技術や確率論に頼って押しまくるのは、プロェフッショナルとはいえないと、勝部さんは言う。

「ギャンブルに限らず、勝負に臨むときにいちばん大切なものは気合いです。気合いがあれば、幸運を呼び込める。だから、ギャンブラーはジンクスにこだわるんですよ。気合いをそがれるような縁起の悪いことは、勝負のときにはできるだけ避けたい、ということなんです」

勝部さんが言うように、ギャンブラーの世界にジンクスは欠かせない。日本古来のギャンブラーである博徒の世界でも“ゲンかつぎ”はさまざまな形で行われてきた。たとえば言葉。結婚式のスピーチではないけれど、博徒にとって「去る」「する」「ない」などは縁起が悪いとされ禁句だった。

そのため、猿を「エテ」、するめを「アタリメ」、ひげを剃るを「ひげをあたる」などと、日常でも言い換えて使っていた。
また、鉄砲の弾は「当たる」から縁起がいいと持ち歩いたり、カツレツを食べると「勝つ」から縁起がいいとするなど、ギャンブラーの世界には、勝部さんの“勝造”のようにゴロ合わせによるゲンかつぎがたくさんある。

 

 

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賭博場は確率論のあてはまらないワンダーワールド

欧米でもギャンブルにまつわるジンクスは多い。たとえば“肩をたたくとツキを落とす”“勝負する人の肩ごしにのぞくのはタブー”などというのがある。肩はツキの出入りする場所であり、勝負をしているときは、決して肩に触れてはいけないと言われている。

また、勝負に臨むときには縁起のいいものを身に着けることでツキを呼び込もうとする習慣もある。例えば欧米では、“フクロウの心臓”や“ウサギの足”を身に着けるとラッキーが舞い込むと言われている。
日本では“鉄瓶のフタ”や“ネコの足”“墓石のカケラ”。それに“処女の陰毛”も昔から勝負運を招くとされていた。

かくいう私も、ギャンブルに臨むときは縁起をかつぐ。
もともと私は無神論者で、嫌味なほどにリアリストである。ふだんは宗教色の強いもの、占い、オカルトのたぐいは、いっさい受け付けない。だが、そんな私も賭博場にゆくと変わるのだ。

「ディーラーが交代したから、ツキは落ちる」「今朝、いつものコーヒーを飲んで出てこなかったから、調子が悪い」「この人と一緒にいるときは、幸運がくるはず」等々、およそ根拠のない事柄をあれこれ考え、それらにこだわり、自分の行動を決めてしまうのである。

だがなぜか、これが不思議なほどよく当たる。また実際、カジノの中では、信じられない「奇跡的な現象」を、たびたび目にする。どっぷりギャンブルに浸かった人ならわかると思うが、そこは確率論や統計学、科学的分析などはいっさい当てはまらない、ワンダーワールドなのだ。そう、無神論者の私が、ギャンブルを通して「神の存在」を信じた、といっても過言ではない。

 

 

ギャンブルの世界は「神の領域」?
 

 

ラスベガスから大負けして戻ったある日、「どうしようもない運命ってあるんだよね。運命に抵抗しようとすると、傷はますます深くなってしまう」と、私がしみじみつぶやいていたら、それを聞いた友人に、「あなたもずいぶん成長したわねー」と言われてしまった。

そう、リアリストでいられたということは、人生観をくつがえすような不幸な出来事に出会わずに暮らしてこれた、ということかもしれない。人は大きな不幸に出会ったときは、理不尽さを追求することをやめ、「運命」というポジションに用意し、身の置きどころを探すのだ。

死に至る可能性のある大病や事故を経験しても、いっさい運命論を受け入れなかった私が、ギャンブルを始めてからは、いとも簡単にオカルト体質に変わってしまった。つまり私にとってのギャンブルとは、「事実を冷静に受け止め、精神の折り合いをつけるためには、神にすがらなければならないほどの、難物」……と、いうことなのかもしれない。