今から4年前の1月1日。私と西山カメラマンは、家庭料理の取材のためフィジーに向かう飛行機に乗っていた。
「取材……っていったって、どうするの? フィジーに私たちの知り合いがいるわけじゃないし……」
思いつきで向かったフィジー。相変わらず大胆無謀な私の取材計画に、西山カメラマンは心配そうに顔を曇らせる。
「大丈夫。現地に行けばなんとかなるでしょ。必ず、私たちのためにお料理してくれる誰かを、つかまえて見せるから」
といって胸をたたいてみたものの、実は私も今回の取材に関しては 内心不安でいっぱいだった。
フィジーの観光についての資料は、日本でもたやすく手に入る。だがフィジーの“一般家庭”の内情についての資料は、驚くほど少ない。ましてフィジーに暮らす人々が、ふだんはどんな食事をしているのか、どんな家庭料理があるのか、まったく情報はみつからない。
もちろん、出発前にフィジー観光局に情報を得ようと連絡もしてみた。ところが何度電話をしても、とても南国的な、「まったりとした応対」でさっぱり要領を得ない。フィジー料理についての情報などカケラも得られないまま、とうとう出発日を迎えてしまったのだ。
もとイギリスの植民地だったフィジーの公用語は英語。だが町ではなく、私たちが取材をしたいと考えているのは、昔ながらの素朴なビレッジに暮らすフィジアン(フィジー人)だ。そんなフィジアンたちに、果たして英語は通じるのだろうか? 私と西山カメラマンの不安を乗せたまま、飛行機は1月2日の早朝、ナンディ国際空港に到着した。
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約300あるフィジーの島々の中で、人が住んでいるのは約3分の1、人口は80万人たらず。そのうちの半分近くが移民であるインド系住民で、他の南大平洋地域の国々と比べると、格段に多い。フィジーの主な産業は、観光と砂糖の輸出。フィジーには世界有数のリゾートホテルがたくさんあり、マリンスポーツやゴルフなどのアクティビティも充実。南太平洋の中では、リゾートとして最も成熟しているといわれる。
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ナンディ国際空港は、フィジー諸島のメインアイランド、ビチレブ島の西側にある。飛行機のタラップに降りたとたんに、モワッと体を包む生温かい空気。まだ早朝だというのに、容赦なく照りつける太陽。どこからか漂ってくるフルーティな香り。イミグレーション(入国管理)の長い列を抜けて、空港ロビーに出てゆくと、そこにはたくさんのフィジアンたちが貝を繋げてつくったネックレスを手に持ち、私たち旅行者を迎えてくれた。
貝のネックレスを、旅行者ひとりひとりの首にかけながら「ウェルカム!」と英語で挨拶するフィジアンもいれば、フィジー語で「ブラ!(こんにちは)」と挨拶する人もいる。私たちの首にネックレスをかけてくれたのは、ひときわ目立つ背の高いフィジアンの青年。なんと達者な日本語で「フィジーにようこそ!」といい、私たちをびっくりさせた。
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今回、私たちの取材に応じてくれたアリフレティ・ナイノカ、通称“アルさん”は、結婚を間近に控えた24歳。フィジーの宴会料理、『ロボ』を作ってくれることになった。
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その日本語の挨拶を聞いた瞬間、私はこの青年に取材をお願いしようと決めた。そして場所も状況も考えず、いきなり取材交渉を始めてしまったのだ。青年の名前は、アリフレティ・ナイノカさんといい、『サウス・パシフィック・ホリデイズ』というフィジーの観光会社に勤務し、日本人観光客のガイドを数多くこなしている。初対面でいきなりの私の取材交渉に、彼は驚きつつも快く応じてくれ、「それでは明日、私の村にご招待しましょう」と、言ってくれた。
アルさんが暮らすラセラセ村は、ビチレブ島の南、ナンディ空港から車で約1時間の場所にある。偶然にもアルさんの親戚、ナイノカ一族は村長や教会の牧師など村の有力者で、私たちの訪問取材もその日のうちにOKを出してもらうことができた。
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フィジーの主食は、熱帯から温帯にかけて広く栽培されているタロイモ。水気が多く蒸しても焼いてもおいしい。甘くないサツマイモといった食感。
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フィジーのマーケットには、タロイモ以外にも、さまざまな種類の芋類が売られている。
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フィジーの住民たちが、ふだん利用しているのは、素朴なオープンマーケット。路上に敷いた畳一帖分の布の上に果物や野菜、魚介類などがにぎやかに並べられ、朝から晩まで買い物客でにぎわう。
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