第1回
2002年7月。その時の私はさまざまな問題を抱えていて、とてもとても疲れていた。
いや、「問題」というのは適切な言葉ではないかもしれない。
私が抱えていたのはすべて精神的に辛いことばかりで、現実に自分で解決しなければならない種類のものではなかったからだ。
それでも家族のこと、友人のこと、恋愛のこと、仕事のことなど、自分を取り巻いているすべてに対して考えさせられる事件が立て続けに起こり、私は精神的にかなりダメージを受けていた。
もともと子供の頃から何かイヤなことがあったり哀しいことがあると、自分の気持ちに手一杯になって、目の前にある「今やらなくてはならないこと」がどうでもよくなってしまう性格だった。例えば学生時代なら、学校へ行くことや試験勉強することを放棄し、大人になってからも仕事を休んだりした。
ライターとしてフリーで仕事をするようになってからは、さすがに仕事を放棄するようなことはなかったが、それでもギリギリまで「やらなくてはならないこと」をあと送りにする性格は、一向に変わらなかった。
特に19歳の時に付き合っていた恋人が事故で亡くなってからは、毎年命日の前くらいから1か月ほど、全く現実に対応できない精神状態になってしまう。
その時期は些細なことにも過敏に反応してしまい、ひどい時には「生きる」ということに対する意欲さえ、なくなることもある。
そんなことを10年以上続けてくると、自分のそういう精神状態にも慣れてきて、「しばらくすれば復活できる」と分かっているため、できるだけ心を穏やかにして過ごすようにするのだが、それでも3年に一度くらいの割合でコントロール不能な状態に陥るのだ。
今までにもそういう状態を何回か経験していたが、昨年の命日以降、「そろそろ脱出できそうだ」と思った頃に、また何かしら落ち込むようなことが起きて、結局それは今年の命日まで続き、更にはそのあと数か月、私は半分引き篭もりのような生活を続けていた。
だけど本当は、そんな「精神的な弱さ」に振り回されて、自堕落に過ごせるほど、私の生活は楽ではなかったのだ。
フリーのライターとして、充分とは言えない仕事しかしておらず、ずっと続けていたスナックのバイトも辞めてしまい、生活費のほとんどはクレジットカードや消費者金融から借りてし払うようなありさまだった。
このままでは生活が破綻するということは、もうずっと前から分かっていたにも関わらず、それでも「今までも何とかなった」という何の根拠もない自信から、私は本来一番に考えなければならない「現実の問題」から目を背け続けていた。
毎月月末になれば、数箇所のクレジット会社やローン会社から何度も何度も催促の電話がかかってきて、家賃もずっと1か月遅れ、電話代や光熱費などもいつも止まる寸前に支払うような生活が、もう何年も続いている。それなのに私はそれらが示している現実を真剣に考えようとはしなかった。
いや、厳密に言えばもちろん、「今月はどうやって乗り切ろうか」ということは、毎月イヤでも考えさせられる。けれど実際に「返さなければいけない借金」と「支払わなければいけない諸々」を合わせた金額は、いつも収入の倍以上あり、どこかに返済してはまた借りて、そのお金でまた別のところを返すという、「自転車操業」を繰り返すしか方法がなかったのだ。自己破産を薦める友人も何人かいたが、私は「借りたものは返す」と、本気で思っていた。
それには収入を増やすしか方法がないことも分かっていたので、精神的な問題に手一杯になって、現実の問題をあと送りにしてはいたけれど、必死に営業をした結果、仕事は確実に増えていた。
しかしいくら仕事が増えても、いきなり収入が倍になるわけではない。創刊された雑誌にせっかく決まった連載の仕事も、この不景気で雑誌自体がなくなるということが何回も続き、安定した収入を得る事ができなかった。
そんな頃に、古くからの知り合いの編集者が会社を興す事になり、「暇な時だけでも良いからバイトに来てくれないか」という話があった。
他にも仕事を持っている私にとって、どこかの会社に定期的に通うというのは不可能だが、「暇な時に」というのならば、何の問題もない。私はすぐにOKの返事をし、ゴールデンウィーク明けから新しくできた出版社にパートとして通うことにした。その時の私は、これで借金は何とかなると、心の底から思っていた。少なくとも生活は安定すると見込んでいた。
毎月入る連載の仕事、すでに決まっている大口の仕事、そして時給で計算されるパートの仕事を合わせれば、数年かかるとはいえ、いつか借金は返せると。その数年の間に、また大口の仕事を取り、連載を増やしていけばいいのだと。
しかし実際には、パートを始めたその月末には、すでに借金すらできないような状態になっており、収入はすべて利子の返済にしかならないくらい、追い詰められていたのだ。
ふとイヤな予感がして、私はパート先の会社から自分の家に電話をかけた。もしかしたら今日あたり、電話が止められる頃ではないかと思ったからだ。
案の定、受話器の向こうからは「この電話はお客様の都合により……」というアナウンスが流れてきた。
その日は、3か月に一度の割合で記事を書いている雑誌の原稿料が入っているはずだった。6時に会社を出た私は、銀行で入ったばかりの原稿料を下ろすと、まずはすでに2週間遅れている消費者金融A社に、借金を支払いに行った。
CMなどでもお馴染みのA社では、もう何年間も借りては返す、返しては借りる…を繰り返している。今日も2万円返して、すぐに借りて、そのお金で電話代を払おう…。私はそう計算していた。
しかしATMで支払いをして、明細書を見た私は、思わず声を上げた。そこには「元金返済14円」と書いてあったのだ。
「14円…2万円返して14円…」
2週間遅れた延滞金と利子は、こんなにも大きいものなのか。私は何だか可笑しくなってきて、明細書を握り締めたまま笑い出した。
「これでは、いつ返し終わるか分からない」
初めて心の底から、そう思った。
身体中から力が抜けて、そこにしゃがみ込みたい気分だった。それでも今度は、電話代の支払いに行かなければならない。何とか原稿料の残りで電話代は払えそうなので、とりあえず振込用紙を取りに家に戻ることにした。
私はそんな状況であっても、お金がないという問題より、その時に抱えていた自分に降りかかる心の問題の方が重要で、家に帰る間も、ひたすらそのことを考えていた。ボーッとしたまま家の玄関を開けると、ドアに挟まっていた何かがポロリと落ちた。私はそれを拾いながら、部屋へ一歩踏み出して、なんとも言えない違和感を感じた。
いつも通りの部屋なのに、どこか雰囲気が違う。夏の6時過ぎである。まだ外は明るいが、窓に面していない台所は、日中でも薄暗い。中を一渡り見渡して、すぐに気が付いた。電子レンジもテレビもビデオも、ありとあらゆる電化製品のデジタル表示の明かりが消えていたのだ。
すぐに思いついてさっき玄関から落ちたものを開くと、そこには電力供給停止のお知らせが記されていた。
薄暗い部屋の中で、私は今度こそ本当に座り込んでしまった。家に着いてからほんの数分の間に、外はどんどん暗くなっていく。この全く明かりのない部屋の中で、どうやって電話や電気の振込用紙を探したら良いのだろうか。
携帯電話の電池もすでになくなりそうで、そうなったら充電もできず、私にはどこかに連絡する術もない。
もう無理だ。どんなに収入が増えても、どんなにバイトを増やしても、私が抱えている借金は、そう簡単に返せるものではない。
「自己破産という道しかないのかもしれない」
私はその時初めて、その事実を思い知ったのだった。