第8回
「僕が貸している200万円の借用書を入れれば、自己破産は可能だと思いますよ」そう澤田さんは言ってくれたが、私には澤田さんへの借金を踏み倒すつもりは毛頭なかった。
澤田さんが本気で、私からお金を返してもらおうと思っていないことは分かっていたが、「返せる状態になる」ということが、応援し続けてくれた澤田さんに対する恩返しだと思っていた。
最初は「下心があるに決まっている」と言っていた友人たちも、
「はるかには応援してくれる人がいるんだから、絶対に夢を諦めたらダメだよ」
と言ってくれるようになり、実際、澤田さんだけに限らず、スナックで知り合ったお客さんたちの応援が、物質的なことだけではなく、精神的にもかなり支えになっていた。
初めて本を出版出来ると決まった時にも、私が真っ先に「知らせたい」と思ったのは、親でも友人でもなく、スナックのママや澤田さんを始めとするお客さんたちであった。私が夢を叶えて物書きになることが、長い間応援してくれている人たちに返せる、唯一絶対のことだと思っていたからだ。
200万円の借用書を渡した時、澤田さんの厳しい口調に、さすがの私も自分のだらしがなさを反省し、それから半年間、必ず月末には3万円を返し、振り込んだ後には電話をするようになった。しかし半年が過ぎる頃には再び生活が逼迫し、3万円どころか1円も返せないような状況になってしまった。
その頃には、仕事もほとんどないというのに、スナックの仕事も行かなくなっており、今思い返しても毎日何をやって過ごしていたのか、よく分からない。達彦が亡くなってから毎年2月になると自分でもどうすることも出来ない精神状態になり、まったく人に会う気になれず、やるべきことが出来なくなってしまう。そして数年に一度、それがかなり激しくなり、生きていることがイヤになってしまうのだが、この時がそうだった。
そういう状態になるにはそれなりに理由があるのだが、他の時期ならばちょっとしたショックを受けるぐらいで流せることも、神経が過敏になっていて、そのひとつひとつが苦しくなってしまう。そういう精神状態が、更に悪いことを引き寄せるのか、一度そうなってしまうと、連鎖反応的にさまざまな問題が起こるのだ。
私は最も「やらなければならないこと」である仕事すら積極的にやろうとせず、生活は追い詰められていった。もちろん友人のことや精神的な問題など、世間やローン会社にはまったく関係のないことだということは分かっていた。普通ならば3月を迎える頃には次第に立ち直るのだが、この時はなかなかその状態から抜け出すことが出来ず、その上仕事でもトラブルが続き、予定していた収入さえも入らず、結局利子がつかない澤田さんへの返済がまったく出来なくなってしまったのだ。
私は毎月末には澤田さんへ連絡し、今月は待ってもらいたい旨を伝えた。その度澤田さんは「はい、いいですよ」とだけ言うのだが、そんな連絡が4回続いた時、
「大丈夫なんですか? もう少し貸しましょうか?」
と言ってくれた。さすがに私も、これ以上甘えてはいけないと、その申し入れを断ったのだが、とにかく一度会おうということになり、食事に行くことにした。
澤田さんはその席に、30万円入った封筒を持ってきていた。
「一度助けたものを、今更見捨てても、貸したお金が返ってくるわけじゃない。それより、このお金で何とかしなさい」
澤田さんの言葉に、涙が溢れた。
「お前は威勢ばかりよくて、実際には精神的に脆すぎる。助けることばかりではお前のためにならないから、厳しくも言ってきたけど、本当に困って変なところから借りるくらいなら、まだまだ僕が貸してあげるから」
そう言って澤田さんは、私に30万円が入った封筒を握らせた。
ここまで切羽詰っても、自分の精神状態に振り回され、ろくな仕事をせず、ライターの仕事がないならバイトをするという根性もなく、ただただ自分の性格がイヤでイヤで、ウダウダと生活している私に、何故、ここまでしてくれるのだろうか。
澤田さんが言うように、甘いことを言われれば、申し訳ないとは思いつつもその言葉に甘えてしまう性格。いつもこうやって澤田さんをはじめ多くの人に助けられて生きてきたという自分の恵まれた環境を充分承知しながらも、目先の辛さに自分の殻に閉じこもってしまう。澤田さんの好意が嬉しい反面、ここまでしてもらっていながらまだ何も返せないどころか、さらに助けてもらわなければならない状況にいる自分が、情けなくてならなかった。
澤田さんに会った月末、私は3万円を澤田さんの口座に振り込むと、ここ数ヶ月必ずやっていたように、澤田さんに電話をした。その日はたまたま、新しい仕事が入ったこともあり、私は振り込んだことと、仕事が決まったことを報告した。 「良かったですね。頑張ってください」
澤田さんは、いつものように明るくそう言った。
その澤田さんの訃報が届いたのは、それから2日後の2001年12月のことだった。