よりどりみどり〜Life Style Selection〜


ゴキブリの恐怖

最近、ゴキブリを見なくなった。大変喜ばしいことである。私はとにかくゴキブリという生き物が大嫌いなのだ。まあ、ゴキブリって大好き! なんて言う人はいないと思うが、その“嫌い”の度合いがハンパではない。嫌いと言うより、はっきり言ってしまえば、ものすごく怖い。数メートル先に、あの黒光りする姿を発見しただけで、足がすくんでしまうのだ。東南アジアのジャングルには、スリッパぐらいのゴキブリがいて、「スリッパだと思って履こうとしたら、動くんだよね〜ハハハハ!」と笑って話してくれた男がいたが、笑いごとではない。もしそんな事態が自分の身に起こったら、心臓麻痺を起こして死ぬか、発狂してしまうかもしれない。

実家にいる頃は、ゴキブリの出没に対する私の守護神は、偉大なる母親であった。「お母さん、ゴキブリ〜〜っ!」と叫べば、夕ご飯の支度中だろうが何であろうが飛んできて、スリッパでバシッ! っと一撃。希に一打目をはずしても、バシ! バシ! バシ! と、巧みな連打でしとめる技は、尊敬に値した。そして、その辺にあるチラシ広告の紙で、あっという間に死骸をくるんでゴミ箱に捨ててくれるので、私はぺしゃんこのゴキブリを見ないで済んだ。ティッシュであろうが新聞紙であろうが、死骸を手でつかむ(もちろん紙越しですが)なんて、私にゃ無理! 絶対に無理!

だから、母親のいないときにゴキブリが現れ、必死の思いでゴキブリ用の殺虫剤でやっつけたときでも、死骸はそのままにしておき、母親が戻ってから始末をお願いしていた。「こんなの、もう死んでるんだから、自分で捨てなさいよ!」とブツクサ言われたが、紙で触れたとたんに息を吹き返すかもしれないし、足が1本もげたりするかもしれないし……あ〜、こわっ!

ゴキブリが羽を広げて飛ぶ、空間移動するということを目の当たりにしたのは、高円寺で一人暮らしを始めて、半年ぐらいした頃だった。天気のいい日曜日の夕方、窓を開けて部屋の掃除をしていたときである。いきなり小さな飛行物体が窓から飛び込んで来た。最初は蛾かと思ったが、部屋をブンブン旋回する様子が、蛾とは違う。セミ? カナブン? 掃除機を握りしめたまま見ていると、そいつが壁にベタッ!と張り付いた。うわあ〜〜〜〜〜!!

その姿を見たとたんに、私は部屋の出口まで一気に後ずさりして凍り付いた。そいつは、なんとゴキブリだったのである。真っ白い壁にへばりついた艶々の真っ黒な姿は、床を這いつくばっているときより、数倍大きく見える。しかも、こいつは今まさに飛んで来たのだ。いつこっちに飛んできても不思議はないのだ。ど、ど、どうしよう! 私は扉を背にしたまま、身動きもとれずに立ち尽くしていた。カサカサッ! とそいつが壁を這う度に、心臓がドキン! うわ〜〜〜〜っ! そうだ、殺虫剤! ……しまった! ゴキブリ退治のスプレー式殺虫剤を買っておくのを忘れた!

そんなことを考えている間も、ゴキブリは少しずつ移動している。このままでは、ゴキブリが部屋のどこかに潜り込んでしまう。そうなったら最悪だ。いつ姿を現すかもしれないゴキブリの影に、私は日々怯えて暮らすことになってしまうではないか。それだけは絶対に避けなければならない。

ゴキブリの行方を凝視しながら、私は必死に対策を考えた。やはり、殺虫剤しか方法はない。すぐ隣がコンビニなので、往復5分でそれは手に入る。あとは、その間に、ゴキブリの身柄をどう拘束しておけるかだ。見失ったら最後だ。いい案がうかばずに敵を見つめたまま、立ち尽くすこと40分。いきなりゴキブリが壁を一気に下に向かって這い下り、床に脱ぎ捨ててあったタオル地の短パンの中に潜り込むという行動に出た。今だ! 私は、タオルの短パンの上に、洗濯してたたんであったバスタオルを掛け、上から掃除機のヘッドでバンバンと叩いた。下はタオルなので、こんなことでゴキブリのヤツが死ぬわけはないが、陽動作戦というわけだ。この威嚇のバンバン! で、しばらくは動きを封じられるはず。30回ぐらいバンバンと叩いくと、私は財布片手に、まっしぐらにコンビニまで走って行き、ゴキブリ用の殺虫剤スプレーを買って戻った。

部屋に戻ると、空飛ぶ侵入者は、私の赤い短パンから今まさに脱出して、再び壁を上ろうとしているところだった。私はドアの所から思いっきり手を伸ばして、買ってきたばかりの殺虫剤をゴキブリ目がけて噴射した。あわてたゴキブリは、引き返して、短パンの中に逃げ込む。ここぞとばかり、短パンの上や横から、私までクラクラしてくるほどの量の殺虫剤をスプレーする。そして、バスタオルで短パンを包み込み、そのままゴミ袋へ。こうやって、1時間以上に渡るにらみ合いの戦いは、お気に入りの短パンとバスタオルを犠牲にして、無事終わったのだった。

麻布十番のマンションの9階に住んでいるときには、こんな事件があった。確かこれも夏のことだ、夜の8時頃、突然電話のベルが鳴った。10階に住む、元スチュワーデスのK美からだった。K美の声は、いつになく上ずっていた。

「みどり〜〜! ねえ、ごきぶり捕まえられる〜〜〜〜?」

どうやら、K美の家にゴキブリが現れたらしいのだ。もうおわかりだと思うが、私に助けを求めるなんて、とんだお門違いだ。私がどんなにゴキブリが苦手かという話をすると、K美は半泣きですがるように言った。

「じゃあ、なんでもいいからすぐに来て!」

ゴキブリに手も足も出ない女が二人集まっても、何の解決にもならないとは思ったが、K美の恐怖はとってもよくわかる。行きたくなかったけれど、渋々K美の部屋へ。やはり窓から飛び込んで来たらしく、そのゴキブリは天井の隅にいた。K美は、おしりまで隠れる大きめのTシャツを着ただけの露わな姿で、床にへたり込んでいた。パイロットのダンナがフライトでいないのをいいことに、いつものように、ぐうたらしながらテレビでも観ていたのだろう。

「ねえねえ、どうしよう、これ」
「誰か男の人を呼んで来るしかないんじゃない?」

とは言ったものの、徒歩圏内に住んでいる男友達は思い当たらなかった。

「隣のダンナとかに頼むのも変だよね、ゴキブリごときで」
「日頃から親しければいいけど、ちょっとねえ……」

そんな情けない作戦会議を始めたとき、ゴキブリがなんと部屋を飛び交い始めた。

「きゃ〜〜〜〜〜! もう、私、隣に行ってくる〜〜〜〜!!!」

K美はそう叫ぶと、Tシャツだけの格好のまま飛び出し、隣に助けを求めに行った。ゴキブリへの恐怖心が、元スチュワーデスのプライドや、乙女の羞恥心よりも遙かに勝っていた、というわけだ。そして、夕食の真っ最中の隣のご主人を引っ張ってきて、ゴキブリを窓から追い出してもらったのだった。

「ありがとうございました〜〜〜〜!」

露わな姿で頭を下げるK美と、

「本当に助かりました! あっ、私、下の階のものなんですが……」

と、アホ面で笑う役立たずな私。全く無様な二人であった。

画像あれ以来、ゴキブリの姿は目にしていない。最近のマンションは機密性が高いので、ゴキブリの入る隙間もないのだろう。それでも油断大敵。いつゴキブリが現れてもいいように、今でもゴキブリ用のスプレーは用意してある。最近では、殺虫剤ではなく、泡でゴキブリを固めて捕獲するという、画期的なスプレーも出ている。キャッチコピーが“ゴキブリを見ることも、触ることもなく、ポイッと捨てるだけ”。まさに、私のような腰抜け用の優れものである。ただ幸いにも、まだ出番はない。

できることなら、このまま二度とゴキブリと出会うことなく、平穏無事に一生を送りたい、と心から願う今日この頃である。