原稿の締め切りを翌日に控え、最後の追い込みに没頭していた深夜1時過ぎのことである。いきなり頭上で、ガラガラガラ! と、家具を引きずるような音がした。ガラガラ! 少し間をおいて、またガラガラガラ!
「おいおい、またかよ! ったく〜っ!」
丑三つ時に、天井を見上げて、柄の悪い兄ちゃんのようにつぶやく私。デスクチェアにあぐらをかき、資料が雪崩のように崩れかかって、スペースの狭くなったデスクで、キーボードを叩きながらぶつぶつ言っている姿は、とても他人には見せたくない殺気に満ちていた。
というのも、この深夜の非常識きわまる騒音は、かれこれ2か月も続いているのだ。考えるまでもなく、犯人は1階上の住人に決まっている。5年前、新築のこのマンションに一斉に住人が入居してきたとき、一度奥さんが挨拶にやって来て以来、ほとんど顔を合わせたことのない家である。何さんだったか、名前すら覚えていない。
上の家は、私の部屋と全く同じ間取りなので、私が仕事部屋にしている部屋が絨毯敷きなのと同じように、頭上の部屋も絨毯敷きのはずである。フローリングは、家具を動かす音や、足音がかなり下に響くけれど、絨毯はよっぽど重たいものでも落とさない限り、そんなに響かないものだ。それなのに、この不届き千万な音は何なんだ! さては、勝手にフローリングに張り替えたな〜。
そんな推理をめぐらしていると、再び頭上でガラガラガラ! もう、頭にきた! 絶対に明日怒鳴り込んでやる! とは思ったものの、翌朝になると、昨日の鼻息はどこへやらで、どうも言いに行く勇気がなくなってしまう。思えば、ご近所に文句を言いに行くなんいうことは、今まで一度も経験がなかった。音がしたときに頭に来た勢いで、階段を駆け上ってドアホンを鳴らしてしまえばいいのだろうが、夜中の2時、3時にそれをやるのはいかがなものか……。といって、改まってしまうと、今度はどういうトーンで切り出したらいいのか……。
しかし、一向に治まらない真夜中の騒音に、ついに私は決心した。あれこれ考えずに、決着を着けてしまおう! よし、今日が討ち入りだあ!
私は着替えも化粧もビシッと決めると、階上へと出陣し、Mさん宅のドアホンを鳴らした。ピンポ〜〜〜ン!
「はい!」(うわあ、 いた!)
「あ、下の○○号室の小野ですが……」
「あ、ちょっと待ってください」(来るぞ、来るぞ……ドキドキ)
玄関のドアが開いて、40歳前後のMさんの奥様が顔をのぞかせ、「こんにちは!」と明るく微笑んだ。なんか、すごくいい人みたい。そう思ったとたんに、私の勢いは、へなへなと尻すぼまりになり、
「あ、あの、大変申し上げにくいのですが……」
いきなり口から出たのは、こんな大人なフレーズであった。一応、私も、常識をわきまえた社交上手の社会人の一人だったらしい。そして、相手も逆ギレなんか絶対にしなさそうな人だということで調子にのり、“申し上げにくい”と前置きした割には、ストレートに深夜の騒音の話をした。もちろん、笑顔を忘れず、やんわりと、ですよ。
Mさんはビックリし、それからすぐに申し訳なさそうに言った。
「それはどうもすみませんでした。でも、この部屋は娘の部屋でして、その時間は寝ているので、音がするはずはないのですが……。もしかしたら、洗濯機の音が響くのかしら。うちは主人が遅いので、夜中に洗濯することも多いんです」
その言葉に、私もちょっと驚いた。あれは、絶対に洗濯とか脱水の音じゃない。でも、中学生のお嬢さんは寝ている時間だと言うし……じゃあ、いったいあの音はなんだ? 勇気を出して討ち入りを果たし、これで一件落着のはずが、騒音事件は思わぬミステリードラマの様相を呈し始めたのである。
「ひょっとして、フローリングに張り替えられました?」
「いいえ、絨毯のままですけど……」
う〜〜ん、ますます謎だ? ついにMさんまで首をかしげる始末。とりあえず、原因を調べてみるということで、その場はそのままおいとまして戻った。
翌日、今度はMさんが、お詫びにとタイユバン・ロブションのケーキを5個も持ってお礼参り(?)にやって来た。そして、どうも原因がわからないので、一度部屋を見て確認して欲しいと言う。現場検証ってやつだ。さっそくMさん宅へ上がり込み、お嬢さんの部屋から、洗濯機まで確認。しかし、やっぱりどちらも騒音の原因とは思えなかった。
「あの〜、ウチは夜中に主人も私もお風呂に入るんですけど、そのときの排水が響くってことも考えられません?」
Mさんの言葉に、私もなるほど〜と深く頷く。音が配水管に響いて、違う場所で聞こえるというのはあり得る話。この時点で私たちは、被害者と加害者を超え、事件の根本原因を捜査する敏腕あぶデカコンビと化していた。そして、もしあのガラガラ音がしたら、私が即座にM家に報告の電話するという約束をし、電話番号を交換して解散した。
その晩、パソコンに向かいつつ、頭上が気になって仕方のないこと。と、その日はいつもより少し早く、深夜12時頃に音がした。来た! 来た! さっそくM家に電話する私。
「あっ、小野ですけど、今音がしました!」
「あ、ちょうど今、私がシャワーを浴びていたんですよ……やっぱり……」
う〜ん、やはり原因はバスルームであったか。それにしても、何でガラガラという音なのか? まだ納得できない。だいたい、排水の音だったら、5年前からするはずなのに、音がし始めたのは、数か月前からなのだ。そこで私たちは、1週間、お互いに報告書を提出しあうことにした。私は仕事をしながら、もし音がしたら、その時刻をメモしておく。Mさんは、家族3人の入浴時間を記録して、翌日私にメールで報告する、両方の時間が一致すれば、原因はバスルームと限定できるはず……ということ。素晴らしい! 名付けて「山びこ作戦」!
このときのMさんからのメールは今でも残っているが、かなりおかしかった。家族の入浴時間だけでなく、ご主人が酔っぱらって帰ってきたからお風呂に入らずに寝てしまったとか、親戚が遊びに来ているので、入浴が1回増えるなんていう生活ぶりまで日記のように書いてあるのだ。おかげで、私たちはすっかり仲良しになってしまった。そして、1週間の調査の結果、我々のメモした時間はほぼ一致し、事件は仕事場じゃない! 風呂場で起きてるんだ! と織田裕二風に納得。
あとは何の音かということを調べればいい。そのためには、事件を再現するしかない。つまり、入浴状況をオンタイムで報告しながら、音の出所を確かめるのだ。名付けて「実況中継作戦」! 作戦実行の日、Mさんは携帯電話を片手にウチにやって来た。さっそく仕事部屋に上がってもらい、デスクに並んで座ると、Mさんがバスルームでスタンバイしている娘の携帯電話に電話する。
「○○ちゃん、じゃあ、まずお湯を一気に流してみて!」
指示を送った後、天井を見つめて耳をすます探偵コンビ。う〜ん、音はしない。
「今度は、桶を落としてみて!」
コツン! コツン! ……おっ!、顔を見合わせる探偵コンビ。でも、この音じゃないんだよなあ。
「じゃあ、桶とか椅子とかを足で動かしてみて!」
そうか、Mさんは桶や風呂用の椅子を、足で動かしてるのかあ……なんて思っていたら……ガラガラガラ!! あっ、この音この音!
「これですよ、これ!」
思わず叫んだ私の顔を見て、Mさんもいきなり目を輝かせた。
「あっ! わかりました! 原因はお風呂の椅子です! ちょうど2か月前ぐらいに、ドンキホーテでお風呂の椅子を買い換えたんです! それだわ!」
家具ではなく、風呂用の椅子を引きずって動かす音だったのである。なるほどねえ、マンションの騒音って奥が深いわ! 私は妙に納得していた。
「すみませんでした! 私がいつも最後にお風呂に入って、そのまま掃除するんですけど、シャワーで流しながら、足で椅子を動かしたりしてます。いちばんうるさかったの、私かも」
そんな自白も、既に笑い話にしか聞こえなかった。Mさんも原因がハッキリして、嬉しかったらしく、帰ってからご主人の分のアイスクリームを食べてしまったと、翌日のメールで報告してきた。ご近所騒音事件捜査本部、無事解散!
その後、M家では椅子を買い換え、また、注意して入浴しているので、深夜の騒音はなくなった。もちろん、全く音がしなくなったわけではなく、たまにとんでもない音がすることもあるが、「あっ、シャンプーを落としたな。また奥さんかしら?」ってなもんで、クスッと笑うくらい。知り合いの発した音だと思うと、少しぐらいの騒音なんて、全く気にならないものなのだと、そのときわかった。
常識やルールよりも、まずはコミュニケーション。探偵コンビは、今もときどきメールでバカな報告をし合っています。
「おいおい、またかよ! ったく〜っ!」
丑三つ時に、天井を見上げて、柄の悪い兄ちゃんのようにつぶやく私。デスクチェアにあぐらをかき、資料が雪崩のように崩れかかって、スペースの狭くなったデスクで、キーボードを叩きながらぶつぶつ言っている姿は、とても他人には見せたくない殺気に満ちていた。
というのも、この深夜の非常識きわまる騒音は、かれこれ2か月も続いているのだ。考えるまでもなく、犯人は1階上の住人に決まっている。5年前、新築のこのマンションに一斉に住人が入居してきたとき、一度奥さんが挨拶にやって来て以来、ほとんど顔を合わせたことのない家である。何さんだったか、名前すら覚えていない。
上の家は、私の部屋と全く同じ間取りなので、私が仕事部屋にしている部屋が絨毯敷きなのと同じように、頭上の部屋も絨毯敷きのはずである。フローリングは、家具を動かす音や、足音がかなり下に響くけれど、絨毯はよっぽど重たいものでも落とさない限り、そんなに響かないものだ。それなのに、この不届き千万な音は何なんだ! さては、勝手にフローリングに張り替えたな〜。
そんな推理をめぐらしていると、再び頭上でガラガラガラ! もう、頭にきた! 絶対に明日怒鳴り込んでやる! とは思ったものの、翌朝になると、昨日の鼻息はどこへやらで、どうも言いに行く勇気がなくなってしまう。思えば、ご近所に文句を言いに行くなんいうことは、今まで一度も経験がなかった。音がしたときに頭に来た勢いで、階段を駆け上ってドアホンを鳴らしてしまえばいいのだろうが、夜中の2時、3時にそれをやるのはいかがなものか……。といって、改まってしまうと、今度はどういうトーンで切り出したらいいのか……。
しかし、一向に治まらない真夜中の騒音に、ついに私は決心した。あれこれ考えずに、決着を着けてしまおう! よし、今日が討ち入りだあ!
私は着替えも化粧もビシッと決めると、階上へと出陣し、Mさん宅のドアホンを鳴らした。ピンポ〜〜〜ン!
「はい!」(うわあ、 いた!)
「あ、下の○○号室の小野ですが……」
「あ、ちょっと待ってください」(来るぞ、来るぞ……ドキドキ)
玄関のドアが開いて、40歳前後のMさんの奥様が顔をのぞかせ、「こんにちは!」と明るく微笑んだ。なんか、すごくいい人みたい。そう思ったとたんに、私の勢いは、へなへなと尻すぼまりになり、
「あ、あの、大変申し上げにくいのですが……」
いきなり口から出たのは、こんな大人なフレーズであった。一応、私も、常識をわきまえた社交上手の社会人の一人だったらしい。そして、相手も逆ギレなんか絶対にしなさそうな人だということで調子にのり、“申し上げにくい”と前置きした割には、ストレートに深夜の騒音の話をした。もちろん、笑顔を忘れず、やんわりと、ですよ。
Mさんはビックリし、それからすぐに申し訳なさそうに言った。
「それはどうもすみませんでした。でも、この部屋は娘の部屋でして、その時間は寝ているので、音がするはずはないのですが……。もしかしたら、洗濯機の音が響くのかしら。うちは主人が遅いので、夜中に洗濯することも多いんです」
その言葉に、私もちょっと驚いた。あれは、絶対に洗濯とか脱水の音じゃない。でも、中学生のお嬢さんは寝ている時間だと言うし……じゃあ、いったいあの音はなんだ? 勇気を出して討ち入りを果たし、これで一件落着のはずが、騒音事件は思わぬミステリードラマの様相を呈し始めたのである。
「ひょっとして、フローリングに張り替えられました?」
「いいえ、絨毯のままですけど……」
う〜〜ん、ますます謎だ? ついにMさんまで首をかしげる始末。とりあえず、原因を調べてみるということで、その場はそのままおいとまして戻った。
翌日、今度はMさんが、お詫びにとタイユバン・ロブションのケーキを5個も持ってお礼参り(?)にやって来た。そして、どうも原因がわからないので、一度部屋を見て確認して欲しいと言う。現場検証ってやつだ。さっそくMさん宅へ上がり込み、お嬢さんの部屋から、洗濯機まで確認。しかし、やっぱりどちらも騒音の原因とは思えなかった。
「あの〜、ウチは夜中に主人も私もお風呂に入るんですけど、そのときの排水が響くってことも考えられません?」
Mさんの言葉に、私もなるほど〜と深く頷く。音が配水管に響いて、違う場所で聞こえるというのはあり得る話。この時点で私たちは、被害者と加害者を超え、事件の根本原因を捜査する敏腕あぶデカコンビと化していた。そして、もしあのガラガラ音がしたら、私が即座にM家に報告の電話するという約束をし、電話番号を交換して解散した。
その晩、パソコンに向かいつつ、頭上が気になって仕方のないこと。と、その日はいつもより少し早く、深夜12時頃に音がした。来た! 来た! さっそくM家に電話する私。
「あっ、小野ですけど、今音がしました!」
「あ、ちょうど今、私がシャワーを浴びていたんですよ……やっぱり……」
う〜ん、やはり原因はバスルームであったか。それにしても、何でガラガラという音なのか? まだ納得できない。だいたい、排水の音だったら、5年前からするはずなのに、音がし始めたのは、数か月前からなのだ。そこで私たちは、1週間、お互いに報告書を提出しあうことにした。私は仕事をしながら、もし音がしたら、その時刻をメモしておく。Mさんは、家族3人の入浴時間を記録して、翌日私にメールで報告する、両方の時間が一致すれば、原因はバスルームと限定できるはず……ということ。素晴らしい! 名付けて「山びこ作戦」!
このときのMさんからのメールは今でも残っているが、かなりおかしかった。家族の入浴時間だけでなく、ご主人が酔っぱらって帰ってきたからお風呂に入らずに寝てしまったとか、親戚が遊びに来ているので、入浴が1回増えるなんていう生活ぶりまで日記のように書いてあるのだ。おかげで、私たちはすっかり仲良しになってしまった。そして、1週間の調査の結果、我々のメモした時間はほぼ一致し、事件は仕事場じゃない! 風呂場で起きてるんだ! と織田裕二風に納得。
あとは何の音かということを調べればいい。そのためには、事件を再現するしかない。つまり、入浴状況をオンタイムで報告しながら、音の出所を確かめるのだ。名付けて「実況中継作戦」! 作戦実行の日、Mさんは携帯電話を片手にウチにやって来た。さっそく仕事部屋に上がってもらい、デスクに並んで座ると、Mさんがバスルームでスタンバイしている娘の携帯電話に電話する。
「○○ちゃん、じゃあ、まずお湯を一気に流してみて!」
指示を送った後、天井を見つめて耳をすます探偵コンビ。う〜ん、音はしない。
「今度は、桶を落としてみて!」
コツン! コツン! ……おっ!、顔を見合わせる探偵コンビ。でも、この音じゃないんだよなあ。
「じゃあ、桶とか椅子とかを足で動かしてみて!」
そうか、Mさんは桶や風呂用の椅子を、足で動かしてるのかあ……なんて思っていたら……ガラガラガラ!! あっ、この音この音!
「これですよ、これ!」
思わず叫んだ私の顔を見て、Mさんもいきなり目を輝かせた。
「あっ! わかりました! 原因はお風呂の椅子です! ちょうど2か月前ぐらいに、ドンキホーテでお風呂の椅子を買い換えたんです! それだわ!」
家具ではなく、風呂用の椅子を引きずって動かす音だったのである。なるほどねえ、マンションの騒音って奥が深いわ! 私は妙に納得していた。
「すみませんでした! 私がいつも最後にお風呂に入って、そのまま掃除するんですけど、シャワーで流しながら、足で椅子を動かしたりしてます。いちばんうるさかったの、私かも」
そんな自白も、既に笑い話にしか聞こえなかった。Mさんも原因がハッキリして、嬉しかったらしく、帰ってからご主人の分のアイスクリームを食べてしまったと、翌日のメールで報告してきた。ご近所騒音事件捜査本部、無事解散!
その後、M家では椅子を買い換え、また、注意して入浴しているので、深夜の騒音はなくなった。もちろん、全く音がしなくなったわけではなく、たまにとんでもない音がすることもあるが、「あっ、シャンプーを落としたな。また奥さんかしら?」ってなもんで、クスッと笑うくらい。知り合いの発した音だと思うと、少しぐらいの騒音なんて、全く気にならないものなのだと、そのときわかった。
常識やルールよりも、まずはコミュニケーション。探偵コンビは、今もときどきメールでバカな報告をし合っています。