よりどりみどり〜Life Style Selection〜


「消し忘れたかも」症候群

つい最近の出来事である。
仕事の打ち合わせのため、日曜日だというのに午前中から、六本木にある親友のY子のマンションに出かけた。年末にやり残した企画のまとめ作業が結構あり、1日仕事になる気配は濃厚。じゃあ、取り敢えず腹ごしらえしなきゃね。腹が減っては戦はできぬ……だよね。ということで、Y子がトーストにサラダ、スープの軽いブランチを用意して待っていた。資料整理用の助っ人にと、Tくんにも招集をかけているあたりはさすがである。

さっそく、仕事の割り振りなどを相談しつつの食事タイム。

「何かさ、最近こうやってみんなでウチで食事すること多いよね」

焼きたてのトーストを両手でつまんで、Y子が楽しそうに言う。確かに12月から、Y子の家に入り浸っての仕事が多かった。徹夜で作業した後に、クリスマスパーティをやったりもしたっけ。辛いんだか楽しいんだか、最近よくわからない生活が続いている。

「そう言えば、あのときもらって帰ったターキーで作ったスープ、まだ食べ続けてるよ」

私が言うと、Tくんがすかさず、

「うちは、昨日食べ終わりました。あれって、毎日具を足したりしているうちに、すごく深い味になっていくんですよね」

と、まるで主婦みたいな口調で、違和感なく会話に参加してくる。そのときだった。突然私の脳裏に灰色の疑惑がムクムクとわき起こったのである。

今朝出かける前、まだ鍋いっぱい残っているスープに一度火を入れておこうとガスレンジに火を付けたのだが、私はそれを消してきただろうか? 点火した後、火力が強いと吹きこぼれるので、とろ火にしたところまではハッキリと覚えている。それからお湯を沸かしてコーヒーを入れ、それを飲みながら、化粧をしたり出かける準備をして、それからY子から電話があって……ああ〜! 火を消した記憶が全くない〜〜!

それまでの和やかな雰囲気が、一変して暗くなった。

「火が点いていれば、音がしてわかるから、絶対に無意識に消してるわよ」

と、Y子は言う。確かに、出かけるまでに何度もキッチンを通ったし、グツグツいっていれば気づくし、臭いもするだろうし……でも、消したという事実が、全く思い出せない。常日頃、記憶力の女王と言われているだけに、ついさっきの記憶が全くないということはやっぱり……。「とろ火」というやつは、炎の吹き出す音はしないし、火の気配もないので、かなりくせ者なのだ。

以前に私は、この「とろ火」で、ゾッとする経験をしている。まだ麻布十番のマンションに住んでいた頃。やはり冬の寒い朝だった。パジャマ姿のまま、さあ、早くリビングの暖房を入れましょ、と背中を丸めてリビングの扉を開いたときのあの違和感は、今でも忘れない。冷え切っているはずの部屋の中が、なま暖かいのだ。ああ、誰かが暖めておいてくれたら幸せなのになあと、独り身の厳しさを思い知らされる冬の朝なのだが、本当に暖かいと、幸せどころか、それは不気味なものである。何で? 何で暖かいの!……まさか……。

慌ててキッチンに行くと、鼻を突くプラスチックが熱せられたような臭い。な〜んと、前の晩やかんをかけてとろ火にしたまま、火を消し忘れているではないか! やかんは真っ黒になり、プラスチックの取っ手にヒビが入っていた。火が出なかったからよかったものの、本当に危ないところだった。私は、底の部分に熱伝導率の高い銅の針金がコイル状に付いたイギリス製のやかんを愛用していたのだが、早くお湯が沸くということは、早く空だき状態になるってことじゃない! 考えれば考えるほど恐ろしく、自分の不注意さに、しばらく立ち直れなかった。

そして今回、またもや「とろ火」である。幸い、家を出てから1時間ほどしかたっていない。私の家は恵比寿なので、六本木とは目と鼻の先だ。こりゃあ、タクシーを飛ばして帰らなくちゃ、と思ったら、

「じゃあ、Tくんの車で確認しに行けば! お天気もいいし、私も付き合う!」

Y子が思いやり半分、野次馬根性半分で言って、結局私たちはTくんまで巻き込んで、火もと確認に緊急出動することになった。

外はうららかなドライブ日和。こんな理由じゃなかったら、本当に気持ちいいドライブなのに……。幸い休日なので道はすいていて、恵比寿の私のマンションには15分ほどで到着した。取り敢えず、マンションに火事騒ぎが起きている様子はない。私は二人を車に残し、11階の自分の部屋に急いだ。頭の中には、焦げ付いた鍋のイメージがクッキリと浮かび上がっている。急げ、急げ、エレベーター!

やっと11階に着き、大あわてでドアの鍵を開けた。うん? 焦げ臭くないぞ! 靴をはいたままキッチンに飛び込む。ガスレンジは……ちゃ〜んと消えていた。やはり無意識に消していたらしいのだ。ああよかった! 慌てて損したし、Y子やTくんに迷惑をかけたけれど、それでも何も起きていないに越したことはない。ほっ!

「これで安心だね。結構楽しいドライブだったし」
「よかったですよ、考えられる可能性の中で、最良の結果じゃないですか」

二人とも、お騒がせ野郎の私を責めることなく、笑顔で迎えてくれたのがありがたい。本当に持つべき者は友達だ。

一安心した帰りのドライブの車中は、火事未遂の暴露大会になった。あれ? 消し忘れたかも! と、いきなり出先で不安になった経験は、誰にでもあるものらしい。そしてたいがいは、今回の私のように取り越し苦労で終わり、笑い話になる。私は10年以上前、ロスに出張に行く成田空港で、この「消し忘れたかも」症候群にかかり、家から電車で1時間以上かかる実家に電話し、母親に確認に行ってもらったことがある。しばらくおいしい和食にありつけないから食べ納めと思い、あじの開きを食べたのが仇で、焼き上がった開きを取り出した後の、グリルの火を「消し忘れたかも」……。このときも、ロスに着いてから電話したら、やはり消えていて、その後母親には100回ぐらい「気を付けなさいよ!」と言われた。が、かく言う母親も、私が小学生の時、家庭訪問に来た担任の先生と話している間に、天ぷら鍋に火が入り、「先生! 大変、大変!」と叫んで、担任の先生に消火させた前科があるのを、私は覚えているぞ。

Y子も、私と同じようにやかんをとろ火にかけたまま出かけて、黒こげにした経験があると白状した。Tくんはもっとすごくて、てんぷら油を捨てるときに『固めるテンプル』を使ったら、油が冷めて溶けなかった(『固めるテンプル』は油が熱い内に入れないとダメなのです)ので、もう一度熱くするためにとろ火を付けたまま忘れて、長電話してしまったんだと!

「焦げ臭いんでハッとしたときは、扉の向こうが真っ赤なんですよ。天ぷら鍋に火が入り、炎が換気扇まで上がってました。あれはすごかったなあ!」

感心している場合か! 素早く消化スプレーをかけて消したものの、真っ黒な煙がもくもくとたちこめ、家中がススだらけになったそうだ。

「近くにカーテンがあったんですけど、どういうわけかそれに燃え移ってなかったんですよねえ(笑)」

いやはや、笑い事ではない。私の友人には、ゆで卵を茹でているのを忘れて出かけてしまい、帰ったら、卵が鍋の中で炭になり、家中に卵のタンパク質が焼けたくっさ〜い臭いがしみついて大変だったというヤツもいる。完全に臭いが抜けるのに数週間はかかったらしい。

騒ぎにはならないけれど、みんなニアミスをけっこうやらかしているのだ。『FINAL DESTINATION』という、日常の何気ないミスからとんでもない事故が起き、次々と登場人物が無惨に死んでいく怖い映画があったが、本当に一歩間違えれば大惨事、ということが、日常にはたくさん潜んでいるのだ。「消し忘れたかも」症候群は、鈍くなった注意力に喝を入れる自己防衛本能からくるものなのかもしれない。

しかし、とろ火は本当にあなどれない。空気が乾燥したこの時期、くれぐれもとろ火の消し忘れには気を付けましょう!