Vol.34 「歴史息づくお城のプリンセス」その5〜プリンセスのお話2

一般公開されているお城の中の部屋。
ハプスブルグ家の末裔、プリンセス・アニータ・ホーヘンベルグのお城を訪問し、いろいろとお話をうかがう中で、恐縮ながら私から、質問をさせていただきました。「ハプスブルグ家の子孫として、またプリンセスとして、現代のオーストリアで生きていらっしゃることに、ギャップや不本意を感じられることはありますか?」……と。「いいえ、まったく」と、プリンセスはきっぱりとおっしゃいました。今週も、プリンセスの言葉をご紹介いたしましょう。

「私は“ハプスブルグ・ロートリンゲン”の名前こそ持っていませんが(曾祖父公が貴賎結婚とされたため、それ以来ホーヘンベルグの名となる)、私の血管の中には、ハプスブルグ家の伝統、そしてその“血”が流れています。けれどもそれと同時に、私はこのオーストリアの国民であるからです」

「私の祖父マクシミリアンのお話をいたしましょう。彼はハプスブルグ帝国時代に生まれ、その後、新しい共和国の国民となりました。そして彼は“オーストリア人として”この国を作るため、積極的に生きました。オーストリアのために立ち上がり、当時のナチスに対抗したのです。そのため祖父と、そして父までもがなんと、ドイツ・ダッハウ強制収容所へ送られてしまいます。他のオーストリア人たちも一緒でしたから、そこには様々な政党や思想の人々がいましたが、祖父は、“我々はオーストリア人である、主義を超えても、皆で団結すべきだ”と、言い続けたのです」

「祖父は大変強い人格の持ち主で、収容所でどんなにつらく最悪の仕事をさせられても、決して、オーストリア人であることの誇りや、国を守る気持ちを失いませんでした。この、苦しい状況下でもオーストリア人としての誇りを持ち続けた祖父と父の話は、私たちにとってのすばらしいお手本です」

「私も祖父や父のように、今ここにハプスブルグの子孫として生きる立場として、社会の中の自分の義務、役目を果たしているつもりです」

「私は母の実家であるルクセンブルグ宮廷で育ちましたが、この地へ来て以来、これまでオーストリア人として生きて、国民としての税金も払い、出会う方たちとは正しい付き合いをして参りました」

「自分は何歳まで生きるかはわかりませんが、これからも、“オーストリア人である”ことを誇りに、生きていきたいと思っております」

私は以前、ダッハウを訪れたことがあります。荒涼とした収容所跡で見たガス室や焼却炉……。“国のために”ここに収容された、プリンセスのお祖父さまのその誇り高さ、そして帝国が崩壊しようともかつての君主の子孫だからこその強靭な責任感……。それらの“精神”が、プリンセスにも、そしてさらにそのお子様方にも脈々と受け継がれていることに、感動を覚えずにはいられませんでした。

ハプスブルグ・ロートリンゲン:マリア・テレジア女帝の夫であるフランツ・シュテファンはロートリンゲン公であったので、以降ハプスブルク=ロートリンゲン家となる。