ふたりの物語

腰を抜かすできごと

(7月16日)
みなさんは腰が抜けたことがおありでしょうか? 腰が抜けるとは、ひどく驚いて身体の自由をなくす、とある。医者の説明を聞く前日、夫からの電話で脳に腫瘍がふたつあると聞かされた時は、呼吸の自由をなくした感じだった。息苦しくなったのである。えーっ、どうして!? 2週間前には、息子ふたりを連れて出かけてくれたじゃない。どうして!? 元気だったのに!? その息子達は私の呼吸困難状態などに気づくことなく、台風7号上陸で臨時休校となり、楽しそうにお絵描きをしている。笑いながら。

ハフハフしながら台風が去ったあとのベランダを拭き、洗濯を始め,夜ご飯の支度に取りかかろうとするが……。急に体が熱くなってきた。体温を計ると37.2度ではあるが、私にしては発熱だ。

人はショックで熱も出るのかと思い知らされたのだ。そんな序章があった。翌日の検査結果だったので覚悟していたのだが。

医者の口からはっきりと言われ説明を受けるとき、体の力がスーッと抜けてしゃがみこんでしまった。医者は冷静にベッドを指さした。それは“おかけになってください”という声なき言葉だった。そんな私の姿に、心配はいりませんよ、なんて言葉はなく、口の重さは終始変わらなかった。あまりのショックに質問したいけれど、質問することもできずにいた。あの時、もっと泣きくずれたり、ぶったおれでもしたら、医者は何と声をかけてくれたのだろう? ひっくりかえっても冷静にベッドを指さすだけなのかな。

好物

(7月17日)
かくして緊急入院となり、ベッドに横たわる夫のそばで、私は入院に際しての事細かな質問責めに、回答をスラスラとペンで書き始めていた。今回の経緯、家族構成、既往症、ふだんの生活、食生活。結婚10年目ともなると、スラスラ、スラスラ夫に聞かなくても記入ができる……と、「好物」でつまずいた。

好きなものはなんですか? 「ウーン、ないなあ」「えっ、ない!?」「ウン、特になし」「えっ、好きなものなかったっけ? マグロとかさ」「好きだけど、しょっちゅう食わねえし……」「そりゃ高いからよ。えー、ない!?」

食事の風景を思い浮かべてみるが……。特になしでは、寂ししすぎるので、空欄のまま次項目へ……。と、人間性は? 楽天家! ウンウンそうねぇ。性格は? 人間性と性格ってどう違うのと思いながら、夫は「ケチ」と書いた。そういえばケチだわ。最終項目を終え、ふたたび好物に戻る。ほんとにないの? シュークリームが好きなことを思い出し、シュークリーム、ショートケーキ、甘いものと書くが、妻としては、どうも納得がいかない。しかし今は頭の回転が鈍くなっていて、思考力がガクンと落ちていて、どうでもよくなっている。

前にとんねるずの『食わず嫌い王』を見ていて、好きなもの3品、嫌いなもの1品を答えるとしたら何? と夫に尋ねたことがある。その時も、ウーン……と即座に答えが戻ってこなかったね。でも家へ戻る電車内で考えると、私の手作りギョウザとニンニクたっぷりのスパゲティを夫はうまいうまいといって食べてくれる。肉じゃがのおいもも、おでんの大根も味がしみてると褒めてくれる。なんだ妻のギョウザ、妻のおでんと書けばよかった。シュークリームやショートケーキじゃ、まるで3歳の子供だ。

あーあ、あーあ、夫婦の絆を示す意味でも、書き直したくて後悔しはじめた。今までに書き直しをナースに言った人などいるのかな?

(7月17日)
緊急入院、近々手術という、とんでもない出来事の中、あまりに突然すぎて、ショックが大きすぎて涙が出ない。MRIの結果を聞いたとき、涙があふれるのかなと思ったが、声を失い酸素が足りなくなっただけだった。本当に悲しい時って涙が出ないのかな? 信じられないという思いが涙を止めるのかな。

とりあえず必要なものを明朝一番で届けなくては……。夕方、夫を残すという状況を物悲しく思いながら、病室を出る前、手を撫ぜ、ほっぺたをさすりながら出た言葉は「今までごめんね」だった。

私は同居の義父母と息子ふたりのことばかり考え、夫のことは二の次だった気がする。もっとふだんから食生活など気を配ってあげられたらと自分を責めだした。防げたはずと責め出した。だから「ごめんね」だった。

その言葉で夫は涙ぐんでしまった。

さっきまで入院質問表で性格はケチとか、好物はない、とか笑っていたのに涙ぐんでしまった。その涙を見て私もジュワッときてしまった。おっといけねえ。これ以上は……涙をとめて病室を後にした。

帰り道。毎日夫が乗っていたJR。秋葉原の電器街、パソコンのことでよく寄っていたんだよね。夫が毎朝毎晩眺めていた車窓を今、私が眺めている。でも、涙は出ない。私って冷たい女なのかしら? 血も涙もない? ウンウン……ごめんね母ちゃん疲れてる……。夜、夫の妹に電話で伝えると、妹は電話口でもう泣いている。突然の信じられない悲しみにもう涙が出ている。へぇ、私のほうがびっくりする。よく平気だねと言われたけど、平気なんかじゃないよ。今は泣くことが怖いだけだ。

新聞

(7月18日)
夫が脳腫瘍で緊急入院という、人生最大の危機におちいってから4日め。少しずつ冷静さを取り戻しつつある。この春入学した次男と、3年生の長男ふたりの夏休みがもうすぐという矢先だった。

笑っても泣いても、手術ならば笑って過ごそうと腹に決め、病院への行き帰りと子供の世話と、精神的苦痛で何日も新聞を読んでいないことに気づく。そうだ、電車の中で読もうと、夫の着替えと共にバッグに入れた。日曜日の朝の社内は空いていて、梅雨明け後の朝からピーカンの暑さかつ冷房が効いている電車は心地いい。さっそく新聞を開く。

私は車内で新聞を広げる初心者だ。2、3人のおじさんが、慣れた手つきで新聞を読んでいる。周りの人に迷惑をかけないように、コンパクトにたたんでは開き、たたんでは開いて読むのはけっこう難しいのである。これは熟練が必要だ。横浜で東海道線に乗り換えようと思ったのに、あれ過ぎていた……。

気になる記事が中央にあるときは、とりわけ難しい。ピラピラパフパフ揺れて落ちつかない。熟練おじさんの手つきが気になる。本当に巧みなのだ。折るときにピラピラパフパフしないのである。どんなふうにたたんで読んでいるのか見たくて見たくてたまらない。座らずにドア付近に立っていたほうが観察できたかな!?

熟練おじさんの技を盗んで、巧みに新聞を読めるようになる頃には、夫が退院できるといいなあ。

メール

(7月18日)
夫婦でメールを交換しているヒトがうらやましかった。幼稚園での送り迎えでも、スーパーで買い物している時でも、ピッ♪と鳴って友人が話している相手が御主人であることは、会話でわかる。ラブラブね! と、からかうが、嫉妬もあったようだ。私もケイタイを持ち始めた。主婦もほとんどの人が持っている。なみちゃんも、早くメールアドレス持ってよ、と友人はせがむ。

アドレス? どう持つんだ? ハイテクについていけない私は、かなり遅れていた。ようやくこの春、メールアドレスを手にしたが、いわゆるメル友は、数少ない。いつだか次男の小学校の検診結果で気になることがあったので、夫にメールしてみた。案の定、返信はなかった。やっぱり期待はしていなかったけど……。帰宅後、たずねてみると、忙しくて返している暇がないと言われた。ふうーん、どれくらいの重大事だったら返してくれるのかな? と、思っていた。

その重大事……。

緊急入院となり、ケータイが手放せなくなっていた入院2日目の夜、ピッ!と鳴る。友人だろうと思いきや、(薫)。初めてメールを送ってみるよん、と……。夫だ!!(病院内のケータイは禁止です。ごめんなさい)機械の文字に胸が熱くなった。夫と私が恋している頃は、ケータイなんかなかった時代だ。たまに相手の親が出て、ハラハラドキドキの時代だ。20代前半に「オレ……」と、かけてきてくれた、あの胸のときめきだった。声でもなく、読み慣れた字ではなく、メールの文字に胸は熱くなれるものなのか……。私も時代に慣れたものだ。

翌日の昼間、私はネギが飛び出す買い物袋を持ちながら、駅前のスーパー付近のベンチでガンガンメールをうっていた。10年働いてくれたのだから、これからは私が働くよ! 早く帰って来い!! と、夫にゲキを飛ばした。そして、夫からの返信。「ありがとう、愛しています」出会ってから今までの、どんな言葉より嬉しかった。

愛しています。

恋再び

(7月19日)
夫に再び恋をすることなどないと思っていた。
恋するどころか、愛情を注ぐのはもっぱらふたりの息子だけだった。夢と現実は違うんだとわかっていながら、ドラマの中のステキな男性になったりして、週に一度の楽しみにしているドラマをひとりニヤニヤ見ているときに限って、ただいまー、と早く帰ってきたりして、流行の俳優の名を知らない夫は、こいつ何て言うの? こいつは? こいつは? とやたらうるさい。静かにしてー、聞こえないー。そのうえ飯食ってないんだよー、と聞きたくなかった言葉を耳にする。そんなに面白いの? と、またうるさい。だって主婦の唯一の娯楽だもの……。

昔はけっこう格好よかったのに……。湯気でメガネを曇らせた姿を見ては、あーあ……と悲嘆した。が、夫も私のことを昔はかわいかったのにと思っているんだろうなあ、と考えはじめた。結婚当時より4kgも多いし、色気のないヨレヨレTシャツとヨレヨレ、ラクラクズボンで家の中で過ごしているし。かといって、家の中でいつでもきれいな格好をしてドキドキするのも疲れる。よっぽどの経済的余裕と時間的ゆとりがあれば別だけど。

たとえば休日に、3年と1年の息子を連れて外へ出るときなどは、「もっとちゃんとした格好してってよー!」と、怒鳴りちらしてしまうこともある。そして、しぶしぶ少しいいシャツに替えたりしてる。

なのに、なのに、なのに。今回の緊急入院で私は再び夫に恋をしている。
家に帰ってこないとなると、会いたくて会いたくて、愛しくて恋しくてならないのだ。夜は不安とさみしさから息苦しくなるのだが……。
朝は、早く会いたい一心で目まいが起こりそうなほどに……。
夫は私の登場を待ちわびていてくれるのかな?

病院に行くと、息子ふたりの寝相が悪く、いつも蹴られていたという話になり、「おれの布団はどうしてるの?」と聞かれ、「私が寝てる。さみしいから」と返すと、彼は少し照れた顔をした。

原クンと江川さんと馬場さん

(7月20日)
夫と出会った当初、私は彼にあまり好意を持たなかった。それはなぜか……。彼は、野球ファンじゃなかった、というのも大きな理由のひとつだったと、やがて気付き始めた。

私は父の影響で、まず高校野球から入門した。作新高校の江川の夏は、父が栃木出身ということもあり、熱をいれての観戦となった大会である。その大会で、優勝した広島商業の佃投手が、私の野球観戦人生初のお気に入り選手だった。その昭和48年大会で活躍した選手が、ごっそりと法政大学に進み、花の49年組と言われた。法政黄金時代である。法大グランドが、元住吉(横浜)にあり、たびたび友人と足を運んだ。と、平行して、我が神奈川代表として、大ブームをもたらした東海大相模のグランドへも足を運んだのである。原クン(現巨人軍監督)が、甲子園のアイドルとして話題を呼んだチームである。

姉の友人が当時、東海大相模野球部のレギュラーとつきあっていたことや、私がファンだったファースト、佐藤勉くんのお父さんとある時、ばったり川崎で会い、「いつも息子を応援してくれていて、ありがとう」と、喫茶店でごちそうになってしまったということもあり、原クンは、巨人の監督になっても私の中では、いつまでも原クンなのだ。

ある時、夫の大学時代の友人、7〜8人で飲む機会があった。野球の話題になった時、父の故郷、栃木県出身ということで応援し続けていた江川さんの話題になった。私はなんの疑いもなく、江川さん、と「さん」付けすると、江川に「さん」はらない!! と、全員からピシャリと言われ、ショックを受けた。「空白の一日」のことを、彼等は許していないようだった。そしてプロレスの話題になった時(私はこれまた父の影響でプロレスファンであり、当時ブッチャーが好きだった)、馬場と呼び捨てにすると、これまた馬場さん、と、「さん」をつけなさいと言われ、びっくりした。

ジャイアント馬場は、馬場だ! と、思ったが、いつしか馬場さんと呼んでいる自分がいた。江川さんは引退し、原クンも現役でなくなり、すっかり野球を観なくなったとたん、なぜか夫は巨人ファンになった。なんで? 今頃? 野球の知識は、ほとんど私から得ているのだ。

「この人、エースなのね」と、言うと「なんでわかるの?」「エースは18番をつけるって、知らないの?」「きょうは後楽園か……」「え? なんでわかるの?」「本拠地は、裏の攻撃なのよ」

基本の基本さえ夫は知らなかった今年は、巨人新監督ということで、久しぶりに野球を見るようになり、夫と楽しんでいたのに、ペナントレースが終了前に退院してくれないと、今年の野球観戦は、寂しくてならない。

お豆腐

(7月26日)
ポジティブに考えようと心がけてはいるものの、やはり気は滅入る。当然だ。いったい私たちが何か悪いことをした? 夫は家族のためひたすら夜遅くまで働き、妻は疲れている夫を気づかいながら(気づかっていたかしら?)ふたりの息子の育児に励み、私なんて一昨年は幼稚園の役員、去年は小学校で長男のクラスの役員、今年は休もうと思ったのに次男のクラスで、誰も手を挙げず、思わず手を挙げてしまい、3年連続の役員だ。その上、小学校登校班の副世話人でもあるのだ。私、頑張ってるじゃないの、なのに、なのに、過酷すぎる試練を与えるなんて、なんという世の不条理よ。悲劇のヒロインというわけでなく、納得がいかないという思いの毎日……。

今まで重く感じていた体は、フワフワと軽く(痩せたわけではなく、力が入らない)心はいつも何かにズキズキ刺されていて、自分の体のようで自分の体ではない状態の日々。胸がつかえて物が食べられず、気力がなく台所に立てず、火を使わない食べ物を口にする日々。そうだ、トマトを買っていこう、と、その日少し早めに家に戻った。八百屋さんでお豆腐3丁100円で売っていた。(毎週金曜日の特価だ)

でも3つはいらない。悲しいけど夫がいない……。

ひとつ50円なら、と手を伸ばすと前の前に並んでいた女性が、「あら、あなた3つ?」「いえ、ひとつでいいんです」「じゃ、私のひとつあげるわ!」と、気前よく、そのお豆腐は、私のものとなった。夫の入院後、初の嬉しい出来事だった。おっ! 運が回ってきた!! いいぞ〜!! たかが50円、されど50円、見ず知らずの女性が分けてくれたお豆腐は、私を元気づけた。

入院生活

(7月28日)
脳腫瘍という残酷な病名にもかかわらず、夫のベッドの周りはやたらと明るい。医師の重〜〜い口調にも落ち込むことなく、彼は復職への希望を膨らませる毎日だ。入れ代わり立ち代わりの、お見舞いに来てくださる友人、同僚、先輩、後輩には、深々と頭を下げる毎日。先日はお見舞いがかち合い、お互い、どうぞお先に、いやいやどうぞお先に、なんて譲り合いながら、ひとりは食堂で待機状態となり、「お見舞いの応対だけでも大変ですねえ」と言われ、「そうなんです〜」と、嬉しそうに楽しそうに答えていた。

私も22才の春、胃潰瘍で2カ月の入院を経験したことがある。仕事のストレス、恋模様の悩みからだったのに、周りからはお酒の飲み過ぎだと言われた。入院はショックだったが、とたんに胃は痛くなくなり、こんな楽チンな生活で2カ月も〜〜? と、不思議な気がした。週に1回のシーツ交換の日は皆、廊下に出された。パジャマ姿のおじさん達は、若いのにどうしたの〜? と、声をかけてくる。夕食後のナイター観戦をしながら、私はどんどんおじさん達と仲良くなっていって、その中にひとり極道の人がいて「あんた、外出許可出てるよな? 明日、ハム買ってきてくれ」と、お金を渡された。「ケチるなよ。肉屋で一番上等なハムだ」と。

その金のネックレスがキラキラ光るおじさんは、私の肩をよく揉んでくれたりした。そしてある時は、「胃潰瘍というと、何かお悩みでも?」と、初老の紳士風の人が声をかけてきた。その人は占いが好きで、本をいつも持っていた。私は思わず、恋の悩みを打ち明けてしまい、ある男性の生年月日を教えていた。いうまでもない、夫の生年月日である。

仲間の退院は喜ばしいことだが、漫画の『フリテンくん』に似ていたおじさんが退院していく時は、「なんだか寂しいんです」と、思わず言っていた。「あら、寂しいなんて言ってくれるのぉ〜」フリテンくんは、にこにこと笑って退院して行った。その病院は、私の母親が長いこと世話になっている病院であり、その主治医が「娘さんは(入院していても)とても楽しそうですよ」と、母親に話したという。入院生活も楽しく過ごす。悲劇の中でも、楽しく過ごす。私と夫は、やはり似ているのかもしれない。

手術前日

(7月29日)
一番心の重い、医師の説明を夕刻5時に控えた手術前日は、やたらと忙しかった。午前中の耳鼻科検査を終え戻ってくると、すぐ昼食を済ませ床屋だ。街角のこぎれいなバーバーといった感じの院内理髪店で頭を丸める。デジカメを携えていないことに気づき、病棟に取りに戻ると、夫の友人が来てくれていて、床屋での面会となった。友人は私といっしょに坊主頭へと変わっていく夫の一部始終を見つめ、時折デジカメで撮影してくれたりした。

頭を刈り終えると今度はシャワーだ。看護婦さんは、よろつく夫を車イスからシャワー室のイスに移動させると「あとは奥さんがいるから平気ね。急いでね。15時30分に再び耳鼻科の検査ですからねー」といって行ってしまった。たかがシャワーだが、慣れないと難しい。私は服のままだ。長靴にこそ履き替えていたが、エプロンに気づいたのは遅すぎて、スカートはびしょ濡れになってしまった。夫は「あー、さっぱりした。ビールが飲みてえ」といったので、嬉しかったが……。

一息つく間もなく、午後の耳鼻科検査となり、私が車イスを押して行った。心も車イスも重かったけれど、妙な幸せに満ちていた。今から13年前……、彼と結婚する前のこと。彼が脳腫瘍の手術をすると知って、()私は病院に駆け付けた。4年4か月ぶりに再会したあの時の彼は、車イスに乗って「こんな姿になっちゃったんだよー」と言った。「じゃあ今日は彼女にトイレに連れてってもらってくださいねー」と看護婦さん。「えっ、私!?」久しぶりの再会。それも病院での再会。トイレのドアの近くで待っていた私に、彼は心細そうに「待っててね」といった。あの時の心細さが今回は見えない。

医師の説明はとても丁寧なもので、命にかかわる重大な治療のスタートだということで、本人はショックを受けていたけれど、私は闘志が湧いてきていた。彼を励まそうと、親戚をはじめ、会社の上司、同僚、仕事関係の知人、大学時代の友人がわんさか。同窓会状態となった。夫は手術より便秘を気にしていて、昨日もダメ、今日もダメと落胆していた。その夜はトイレに座り込む夫に握手をしての帰りとなった。決戦の日の前夜、トイレでサヨナラなんて笑える。

※悪性脳腫瘍の手術は、今回で3回め。今から13年前、彼は私との結婚前に最初の手術を受けた。

メール2

(7月30日)
メル友が少なくてさびしい毎日だったのに、急に忙しい。夫の友人から、妹から、私の友人から、来るわ来るわ。私も返事、返事。おかげでメール打ちは早くなったし、漢字変換の早ワザも習得した。

いよいよ手術当日の朝を迎えた。5時すぎ、早く行ってあげたいから、そろそろ起きなくちゃ、と思いつつも体が重い。布団の中でゴロゴロ。と、枕元のケータイがピッ♪ ウン!? こんなに早く。(夫の)妹のちづちゃんかしら? と見ると、薫とある。夫からのメールだ(病院内でごめんなさい。本当にごめんなさい)。その内容に、私は今までこらえていた涙が流れてしまった。今までどんなに涙がジュワッときても、まぶたでこらえて、流さなかったのに……。とうとう、右と左とタラーーリと流れてしまった。5時46分だった。

五行歌などというものが、にわかブームのようだが、そんなほんのわずかな言葉だったけど、胸がいっぱいで胸がいっぱいで、重い体も軽くなり、布団から出ることができた。ずっと台所に立っていない私に、母親が早起きをして味噌汁をつくってくれていた。いつもは姉が食事をつくるので、台所に立っている母親を見て「雨が降るよ」と姉がいった。出勤時間の少々遅い会社員に混ざって電車に揺られ、1時間10分。私は何度もメールを読み返した。口ベタな夫の精一杯のメッセージ。

7時20分に病院に着くと夫はテレビを見ていた。手術前の患者には見えない。私もテレて「メール見たよ」と言えずにいた。言葉で、言葉でちゃんといってくれたなら、どんなに嬉しいことか。けど、きっと声に出すとお互い泣いちゃうんだろうなあ。泣きたくないから、間接的なメッセージになっちゃうんだろうなあ。私もずっといえない一言がある……。「結婚を後悔してないよ」

ストレッチャー

(7月30日)
手術当日の朝、当初8時の病室移動が10時となり、さらにそれも遅くなり、夫はだんだん緊張してきてしまっていた。7Fの脳外科病棟は、整形外科と一緒ということもあり、病状の重さを忘れさせる。まだかな? まだかな? 待つのは、本当に嫌なものだ。

11時が過ぎてしまった。お昼になってしまうじゃないの。なんだかこのままいつもの調子で昼食が運ばれて……点滴が始まって……という感じ。担当看護婦に、遠慮がちにたずねても「まだです」と……。患者の気持ちを、どう考えているんだろう?

11時半、やっと手術室から呼ばれ、ストレッチャーに移動する。筋肉注射がうたれ、720号室を出る時、私は夫にKISSをした。そして、手術室のある4Fに降りる。この日、夫の両親が高齢なのだが、洋光台(横浜・磯子区)から来てくれていて、3人が見守る中でのストレッチャー移動となったのだが、ストレッチャーが早いこと早いこと。大人の男性が乗るその台を、看護婦ひとりで移動させる。看護学校で実習するのだろうけど、押すスピードの早いこと早いこと。私だったら、角やらドアやら、人などにぶつけそうな勢いだ。

私は夫から、今回の闘病を記録しておいてほしいと頼まれているので、デジカメ持参だ。しかしストレッチャーが早すぎて、なかなか写真が撮れない。その上、2時間かけて病院までやってきた義父は、足が悪く杖をついている。重い足をひきずりながら、息子のストレッチャーについていくのは、過酷な限り。転ばないか心配で、何度も何度も振り返りながら、義父の足を案じていた。

「それでは、ここまでです」やっとついてきたのに、もうしばしの別れだ。夫の両親は、「可愛い子供がいるんだから、頑張ってよ」と励まし、私は夫に頬ずりし、「頑張ってね」と、声をかけた。夫は「ありがとう」と、答えて手術室に向かっていった。夫の会社の方から頂いた湯島天神のお守りを握りしめ、「どうぞ彼をお守りください」と、祈った。

それにしても、もう少しゆっくり、ストレッチャーを押してほしいものだったな。

待ち時間

(7月30日)
待つ時間というのは、何を待っているかによって、相当違った思いがある。日本人は待つのが苦手という。山手線など2〜3分おきに発車するのだから、それがもし8分待ちとかになると「えー8分も?」ということになる。信号だって、青が点滅していても、ふだん見せたことのない走りで渡ってしまうことがある。待つのが嫌だからだろう。私もスーパーのレジに並ぶ時、早そうな列に並ぶのだが、なかなか小銭の出せない人や、バーコードがなかなか読み取れなかったりして遅くなると、ひどく悔しい気持ちになる。切符を買う時もそうだ。

けれど、「待ち遠しい」という言葉で表現する、待つ時間……は好きである。夫が25〜26歳の頃、半年間、イスラエルのキブツにいたことがある。当時私には、別の彼がいたのだが、夫は異国からよく手紙をくれた。その手紙が待ち遠しかったこと!! 夫との付き合いは、出会ってから結婚までの10年で、ついて離れてついて離れての繰り返しだったが、会っていた頃の電話の待ち遠しかったこと!! 子供の生活でも、息子達はカップラーメンができる3分間を、非常に楽しそうに待っているし、夏祭りのかき氷を、わくわくしながら列に並んで待っている。

しかし、手術が終わるのを待つというのは、我が身が切られそうなほど苦しく、辛いものだ。とちゅう昼食をとるけれどスムーズに胃に流れない。今まで母親の心臓手術を二度経験しているけれど、何度経験してもこればかりは慣れなどしない。

家族控室は、ゆったりソファとピンクの椅子と、ほんの少し畳敷きスペースもあり、ゆっくり休むこともできるけど、今回は患者の家族の心のケアも、あったなら……とつくづく感じた。待ち時間で、せめてテレビ、せめてBGMを流してほしいと思ったし、雑誌も置いてほしかった。心なごむ絵もあったなら……と。いちばん辛いのは、確かに患者本人だけれど、それを支える家族の心のケアを、今後求めたいとつくづく思ったのである。

手術を終えて

(7月30日)
当初8〜9時間といわれていた手術。午前11時30分に手術室へ入り、22時をすぎると、だんだん落ち着かなくなってきた。すでに手術開始から11時間近く。家族控室では、幾多の家族が静かに待っている。なんで、みんなあんなに静かに待てるのだろう? シャンと座ってほとんど動かない。私はソファに足を投げ出し、横になったり席を替えたり、外を眺めたりしていた。次々と「○○さんのご家族の方ー」と呼ばれ、中へ入っていく。重いドアが開くたび、心臓がドキッとする、の繰り返し。23時をすぎても呼ばれず、手術中に何かあったのでは!? と不安がよぎる。もう、居ても立ってもいられない状態だ。座ったり立ったり、横になったり、起きたり。泣き虫だけど、冷静な夫の妹のちづちゃんは、そんな私をみて笑っている。

入院当初から、ちづちゃんは「明るいお嫁さんでよかったよ」と、つくづくいっていた。「すごく悲しくて大変なのに、なみちゃんはどこか笑える」と。そう、家族控室の私の姿は、どこか(萩本)欽ちゃんのコントのようだったはずだ。

23時30分。バーンとドアが開き、夫の病棟の担当医師が白衣をひるがえして出てきた。ウッ! 心臓ぶっとびそう。ひざかけにしていたバスタオルを握りしめ、奥の部屋へ。「主治医のM先生は緊急オペ中なので、私が説明します」と、若い体育会系の医師が、爽やかに話し始めた。MRIの画像を見ながら、手術前と、手術後の腫瘍を取ったあとを示した。安堵で涙がジュワジュワ。しかし、こらえて流さなかった。あまりにも爽やかな話し方なので、私とちづちゃんもグングン元気になっていった。

集中治療室かと思ったら、術後は病棟の4人部屋に通された。酸素マスクと、管がいっぱい。頭の管からは血を受け止める小さなバッグがついていた。「よくがんばったね!!」肩をさわりながら、そう声をかけたが返事はなかった。しかし、足を動かしていて、力強さを感じた。手の温もりが嬉しかった。ちづちゃんと握手をし、家族控室の畳の間で朝を迎えた。東京の真ん中の眺めのいい病院。朝日は私の心を温かくしてくれた。

ビール

(7月31日)
7月17日の入院から、大・大・大・大・大好きなビールを飲んでいない。願をかけてのことだが、この真夏の最中、かなりの試練だ。私は毎晩、一日のごほうびに350mlの缶ビール(正確には不景気の折、発泡酒が正しいが)を飲んでいた。発泡酒もビール会社が競い合っているので、かなりおいしく満足できる味だ。毎晩、帰宅の遅い夫抜きの、息子ふたりとの夜ごはん。息子たちは以前、どっちがビールを注ぐかでもめていたのに、今はそれもなく、手酌だ。

いつか友人から「毎日じゃあ、ありがたみが薄れるから、私は土日だけ飲んでいる」といわれ、<えっ!? 毎日じゃいけないの?>と我をかえりみたが、やっぱり私は毎日飲むことにした。夫と知り合ったころ、20歳を少し過ぎたくらいだったのに、私はかなりいけた。初めてのデートでは、新宿の飲み屋横町でホッピーを飲みごきげんになったが、帰りの足取りがしっかりしていたのは私のほうだった。彼は酒に飲まれるタイプで、長身な彼の体を電車内で支えたのも私だった。私のお酒の強さは年齢を重ねるごとに馬力がかかり、20代半ばは“ざる”を超え“わく”といわれたほどだった(自慢することでもないのだけれど)。

20代。私はモダンダンスにのめり込んでいた。仕事のあと下北沢の稽古場へ行き、2時間のレッスンを終えると、のどはカラカラ状態。真夏などは脱水状態だった。駅へと歩く途中、友人は清涼飲料水などを口にするのだが、私はひたすらがまん、がまん。帰宅時には母親が、旦那を迎えるみたいに「冷えてるわよ」と耳打ちをする。お風呂につかり終えたところで、それまでの、のどカラカラ、極限状態から開放の時だ。クッワーーーッ! うまい!! ビールは、がまんしてこそ、うまい。

願かけビールはいいが、この闘病。いつの時点でビールを飲んでいいのだろうか、と自分のことで悩みはじめていたが、その答は単純だった。手術翌日の昼過ぎ。回復の早い夫がいった。「ビールが飲みてえ」そうか、ビール解禁は夫との乾杯の時じゃないか!! 「いっしょに飲める日がくるまで私も飲まないよ」というと、酸素マスクの奥から「ありがとう」が聞こえた。